30年間泣いていた<発達障害雇用前線>

発達障害者雇用で就労する筆者が、発達障害者が生きにくい社会についての考察や時事問題、自分&他のケース、独り言などをまとめました

<発達障害者雇用で働く筆者が、
発達障害者が生きにくい社会についての考察や時事問題、
自分&他のケース、独り言などをまとめました

数字が全ての世界は生きづらい

 

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昨日の記事、日本は生きづらい問題を分割しました。

コスパ厨という名前があるように、もうなんでもかんでもコスパコスパを重視する社会。

(だからこそ、数字が出せない、時間についていけない発達障害者は苦しいのですが…)

 

もう少しスローに生きても生きられる社会を望むたこです。

 

先日は

  • 西洋化で徹底合理主義
  • 全てが管理される生きづらさ
  • そのくせ搾取だけ西洋式でチャリティー精神がないので救いがない
  • (貧困は)自己責任と国のトップが言い放つ

 

という現代日本の生きづらさについてお話ししましたが、西洋化されて入ってきたのは科学思想と合理主義でした。つまり、ムダなものを徹底的に省いていくという作業です。

 

そしておそらく、その作業の中で漏れ出てしまったのが発達障害者です。

 

私は時間の管理も数字も、とてもアバウトに生きています。そもそも電車がきちんと来ないのに、1分でも遅れたらアウトという先進国特有の感覚にいまだついていけません。

 

こういう「人間を管理する」数字の問題について、今回は見てみます。

 

 

 

  

数字だけを見たら、社会はもっと生きづらくなる①時間

 

西洋思想が入る明治以前は、時間の概念というものはもっとゆるいものでした。

携帯電話が普及する以前は連絡など密にとれなかったので、待ち合わせで時間に開いてが来なくても待ちぼうけ、なんかあったり。

さらに昔もお寺で鐘が鳴ったら帰るとか、そういう緩い時間の流れにいたからこそ、のんびりと暮らしていました。

 

日本人はもともと時間にルーズな生き物でした、というのが定説です。

 

では、いつから日本人はここまで時間を意識しはじめたのでしょうか。理由ははっきりとはしませんがいくつかあるようです。それによると、日本人は元々時間には寛容で、明治時代初期には鉄道の30分遅れはあたりまえでした。工場では労働者が遅刻することも多くありました。そこで昭和初期頃の80年前くらいに導入されたのが「科学的管理法」です。これは作業効率を上げるためにアメリカで作られた労働者管理法で、労働者の作業を時間などで標準化したものです。

時間を守る日本人|過去記事 | ひらがなタイムズ

 

 このように明治期に近代思想が輸入されるとともに、時間の概念も輸入されました。時計時計=数によるコントロールです。

 

数字だけを見たら、社会はもっと生きづらくなる②質

勝間和代というコスパおばさんが、「医療は実績だ!」と言ってもてはやして有名になった病院のDPC情報比較サイトがあります。

DPC情報というのは、ある病院がどういう手術を何件やったとか、どれだけの症例数がある、とかです。そうした「数」を比較するサイトなのですが…あれれ。ちょっと待ってください。

 

そもそも病気って数で決まるものでしたっけ?

 

医療のようなものははっきりいって、質の問題です。

たしかに実績数はある程度参考になるものです。しかし、実績だけで決めてしまうような社会を作り上げてしまうと…

 

yomidr.yomiuri.co.jp

こういう問題が噴出すること間違いなし。必要ない手術も水増しするために、そりゃもうひどい手術カモにされる患者さんが続出するのではないでしょうか。

 

 

 

数字だけを見たら、社会はもっと生きづらくなる③数は正義か?

今のメディアは、はっきりいって数の時代です。

テレビなんて偏向報道はもちろんのこと、最近ではまとめサイトなんていうのがもっぱら主流です。そのまとめサイトの元になっているのは匿名掲示板です。

 

私はたまにおーぷん2ちゃんというものをやるのですが、政府に都合の悪いことを書くとまあ火消しが飛んできて、あっという間に反論で埋め尽くされます。

逆に、政府に都合のいいことや社会にとって有益なことはなぜかスレが異常に伸びて翌日には速攻まとめ10サイトとかそんな感じです。

 

メディアだけではなく、一般の商店にならぶ品もそうです。売り場面積が取れればいい、売れればいい、そういうことを意識した規格品が並びます。

たしかに多くの場所で買えるものは便利ですし、交換も楽です。でも、個人でやっているものを買いにいくと、やっぱり規格品ではない、一点ものにも出会えます。

 

数は絶対正義ではありません。質も同様に大事なのです。

 

 

よくわかりやすい例は、冷凍食品と手をかけた料理です。

 

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 冷凍食品は、同じ食品を同じ規格で大量生産します。

同じ分量の調味料と、同じ工程でつくられる【モノ】です。

最近はだいぶ美味しくなったといわれますが、やはり「消費する」と考えると、やはりそれはただの【モノ】です。

 

でも、シェフや家で作る手料理はどうでしょうか?

どんなに工程を省いても、やはり料理は料理であり【モノ】にはなりえません。そして、毎回同じ質に仕上がるようなものではない。味の調節もできる。

人の手を介すると、同じ食材を使ったとしても、明らかに質は異なるのでなないでしょうか。

 

体調によって味覚も、気分によってその時で食べたいものも違いますし、いくら最近ではおいしくなったとはいえ、同じ味の冷凍食品を毎日食べている毎日は無機質ですし、何か違うような気がします。

 


 

 

まとめ

 

数が全ての社会は生きづらいし、人間は「数字」とは真逆の有機物です。

 

「質」をある程度人生にバランス良く組み込まないと、それこそ機械のように働き生きる機械人間になってしまい、大変生きづらくなります。

「質」を人生の中に上手に取り込んでいきましょう。

(でも、なかなかその「質」生活ができないのが、時間と数に追われすぎた今の世の中なんですよね…)

 

数ですべてモノを見る社会は、発達障害があってもなくても、ふつうの人にとって大変生きづらい社会です。

数字が全てになりつつあるから金の量も生活の質も格差も広がるし、みんなが生きづらいのだと感じています。

 

私は、数字にとらわれない、生活の「質」向上がどうしたらできるかな、と考えています。

 

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